So-net無料ブログ作成
検索選択
山小屋の青春 ブログトップ

山小屋の青春 3 [山小屋の青春]

1970年前後東京での高校時代の話しである。

前回冬の山小屋へ同級生ガイドして夜間の沢の遡行をしたことを書いた。
その前に自分の人生をかえるような重要な山行きをしていたことを忘れる訳にはいかない。
それは高校2年の冬正月の山行だった。

山岳部のSとサッカー部のHと私の3人で高校の山小屋のある奥秩父への冬山山行だった。
誘ったのは山岳部のSだった。この時はいつものルートではなく離れた峠下で一泊幕営して、それから尾根を縦走して小屋に下るというコースだったと記憶する。殆どの用意は山岳部のSがしてくれた。確か山岳部で使っていた大きめリュックも寝袋も。

ただ言われるままについていっただけの二人はまず夕暮れの塩山駅で彼のとった行動に驚かされた。
目的地の林道奥まで行くのにタクシーを使ったのである。

何を驚いた?と思われるだろうか。高校生が遊びのためにタクシーを使うことにである。そもそもそのときまで自分一人でタクシーに乗ったことさえなかったのだから。当然金は彼が払ったのだと思う。

少し歩いて幕営地につくとあたりは一面雪だった。暗い山の中で呆然と佇む我々を後目に彼は一人でてきぱきと設営をして初めてのテント生活がはじまった。

すべてが初めてのことだった。水を汲んで、携帯コンロ、ラジウスに火をつけた。これが驚きだった。因みに関西ではホエーブスというのが主流で、携帯コンロの代名詞のように使われていたのだが、関東ではラジウスが主流だったように思う。何を作って食べたのかは記憶にない。

そしていざ寝る段になるとまた驚かされた。我々に貸与された寝袋は毛布を縫い合わせたものでおそらく山岳部で夏用か何かに使われた共同装備か何かだったのだろう。それに対して、彼はまともな化繊綿入りナイロンシュラーフを持参していたのである。なんだ、これで寝るのかよ。ずるいなぁ、とか言い合って、正月の夜が更けていった。のは良いが、案の定、寒くて寝られない。床にも今ならクッション断熱マットというのは夏でも普通だろうが、そんなものもあったはずもない。新聞紙でも敷いたのだろうか。

ナイロンテントの天井越しに月か星あかりがみえたような記憶がある。あとで知ったことだが、このテント、本来なら内張もしくはフライシート(雨除け)があるはずで、たぶん重いので持ってこなかったらしい。

寒い一夜が明けて出発となると明るい冬の陽の下で山岳部のSと僕ら二人の格好の差が歴然となった。

Sの革の登山靴に対して僕らはその頃ハイキングに普及していたキャラバンシューズ、Sはその上にショートスパッツをつけていたが、そんなものも初めて見た。毛の靴下にニッカボッカ。僕らふたりはふつうの綿のスラックス。上は僕は確かビニロンか何か父親のヤッケを着ていた。僕らは重い綿の縦長のザックに対して、彼は自前のナイロンのザックを背負っていたように思う。

あたりは雪景色だが好天下登山道の雪は融けだし、いざ歩きだすと次第にシューズのナイロン布を通して冷たい水がしみてきた。

峠にでて縦走路に入る頃にはキャラバンシューズの中はもうすっかりビショ濡れで足先が冷たくてたまらなかった。それでも天気も良く、いたって陽気なもので、
”凍傷になるぞ!” ”アハハ”
とか

”熊がでるぞ!””アハハ”とか

その頃化学の授業で習っていた
”エンタルピー!!””アハハ”(エントロピーを何故かそう発音していた)

とか脈絡不明の言葉を発して、その都度笑いながら歩いていった。
どうしてこうなるのか不思議な心理状態だが、そういう循環回路から抜け出せなくなっているのだった。

頂上の方面から縦走してきたパーティーとすれ違ったが彼らは異様な装束に身をつつんでいた。
後で大学で冬山の装備を知って初めてわかったのは、アイゼン、編み上げのロングスパッツ、オーバーズボン、ヤッケ、それに手にはピッケル。冬山のフル装備である。
正月の2千Mクラスの山、天候を考えればそこまでとは思うが、やって可笑しいという格好でもない。

翻って向こうからみればこちらの超軽装にはさぞかし驚いたことだろう。

今考えてみると、山岳部のSにも冬は初めてのようだったし、山小屋が近くにあるから、という安心感がこういう冒険をさせたのだと思う。
山小屋にたどりつけば何とかなる。物理的具体的な身辺安全の保証はずいぶん登山者の心理にも影響を与えるものである。
登山上の安全上からしても山小屋には功の面がたくさんあるが、敢えて罪と言う言葉を使えばその部分も少なくはないだろう。山小屋が間接的な原因で遭難したと思われる例は幾つもある。

さて雪の尾根道を行く無謀能天気高校生3人組の足は冷たく、空腹も耐え難くなってきた。
ようやく昼食休憩になり、Sがラジウスを焚いて餅入りのラーメンか何かを作ってくれた。
熱いラーメンを啜るとやがて足先が急に暖かくなってきた。
それまで本当に冷え切って、話しに聞いていた凍傷というのもだんだん不安になる位だったから、この体の変化には感激した。

特異動的作用というらしいがおそらく寒さと飢えというものを知っている人なら、誰でも知っていることなのだろう。だけど戦後しばらくして生まれて飢えを知らなかったボクはこの時はじめて食べるということが体にもたらす劇的変化というのを知ったのだった。

さてこれから先の記憶がない。その日小屋に泊まったのか、立ち寄っただけで帰ったのか。ともかくこうして、初めての冬山登山は無事に終わった。

だが、この山行は初めに書いたように人生に大きな影響を与えた。
雪景色の山の魅力というより、Sに見た山男、への憧れである。

山という環境の中で、テントを張り、火をたき、メシをつくる。それだけの事なのだが、これはすごいな、と思ったのだった。何かフツウの人間と違う価値観があるように思えたのだ。

後日談がある。この冬山行きは山岳部Sの反抗だったというのだ。

この時期、すなわち高校2年の秋から翌春にかけて、大学紛争に影響をうけて、僕らの高校でも盛んに討論が行われていた。その結果とうとう2学期の学期末試験が中止になった。というより無理矢理中止に追い込んだのだ。といっても学園紛争という言葉で連想されるように、何らかの物理的手段を弄した訳ではない。
討論の結果である。授業をつぶしての討論につぐ討論。ろくに授業もしてないのだから、教師側も困ったのだろう。どうやって成績をつけたものだったのだろうか。

僕らは天井が抜けたような解放感に浸りながら何か身の置き所のなさも感じていた。Sとはそれまで特別親しくもなく、クラスの討論でも殆ど目立った発言もなく冬休み前に突然声をかけられた、という印象だったのだ。
子供の頃親に連れられて安達太良山に登ったことがある、とか。その程度の会話をした記憶はある。あとはクラスでの山小屋行で目をつけられていたのだろうか。

冬山はクラブでも禁止だったのだ。”ああそれは、S君の掟破りだね”。数十年後高校の恩師と会ってその事に話しが及んだ時、初めてその話しをきいた先生はそう断言した。
もし何かおきていれば大騒ぎになったことだろう。

山と学生運動。この二つだけはしてくれるな。そう子供に言いわたす親も多かった時代である。
知らずにその二つに近づいていた時期でもあった。
(続く)


コメント(0) 
共通テーマ:旅行

山小屋の青春 2 [山小屋の青春]

(1960年代後半の頃の話しである)
クラスに山岳部のS男とY子がいたので、彼らに引き連れられて、せいぜい10人位までだったかと思うが、何度か山小屋へ通った。

その頃は授業は土曜半日だったので、終了後 食料の買い出しをして、それから中央線の鈍行に乗って、登山口の塩山に着くともう日暮れだった。それから懐中電灯をつけて小屋のある7合目くらいまで登るのだが、近道をして沢を遡行するのだった。

女子も半数くらいはいたと思うが、今振り返るとよく親も許したものだと思う。いろいろな意味で。夜に山を登るということもさりながら、外泊である。今であれば男女の問題が心配かもしれないが、性情報の氾濫しだす前、70年安保を控えていた政治の時期、クラスの中に性の匂いは薄く、皆の心の内に秘められていたのだろう。

その親の信頼を半分くらい裏切って、小屋でくりひろげられるのは酒宴である。おおっぴらに人目はばかることなく飲んで歌って、騒いで、叫んで。僕もここで自分が飲めない体質だということもわかったし、飲んで吐くという初体験をした。持参した酒がたりなくなり、夜中、近くの山荘まで買い行って、帰りに山道からずり落ちたり。

小屋から暫く歩くと展望のよい峠にでる。小屋の喧噪に飽きて、日の出を待とう、とその頃ちょっと好きだった山岳部のY子を含む何人かで登った事があった。

その頃と書いたが、クラスには素敵な女性が多かったし、元人気がある女子高だったからその頃は女子を多く入学させており、多摩各地から集まってきた魅力的な子が上級生にも下級生にもたくさんいた。とうぜん好きになった子は何人もいた。今となっては、こんな願ってもない環境にいて、清く正しい高校生活しか送らなかったことは返す返すも残念である。でも繰り返すがそんな時代だったのである。

冬の夜明け前の峠に僕たちだけ残って、峠に腰をおろして肩をよせて並んで座りながら、彼女はこの山をホームグラウンドにして、知らないところがないくらい歩きたいんだ、と語ってくれた。ふーんと頷きながら、山女というのはそういうことを考えるものか、と思ったものだ。
ちょっと言葉がとぎれた時、キスをしようかな、と思ったけど彼女と同時に自分の口臭が気になった。もしかして、したのでこんな事を覚えているのかもしれないが。今となっては記憶も定かでない。たぶんしてない・・・

これは3年の冬の頃だったと思うが、その時は山岳部の部員がいなくて、僕がリーダーになって何人かで小屋に泊まったことがあった。その時も沢をつめたが、ずいぶん無茶なことをしたものだ。冬季の夜間の沢登り・・・みなド素人の高校生である。さすがに道をまちがえたらどうしようか、と不安になったがなんとか冷たい水にはまる者もなく、一番懸念された、沢から抜ける道も見つけられて、無事たどり着けほっとした。

酔っぱらって、小屋の窓からゲーゲー吐いて、よく朝起きてみると、夜降った雪が一面を覆い、吐瀉物に向かってウサギの足跡が点々とついていた。顔をあげると、真っ青な晴天の下はるか向こうに富士が見える。素晴らしい小屋だった。
(続く)


コメント(0) 
共通テーマ:旅行

山小屋の青春 [山小屋の青春]

北アルプス燕岳の麓、中房有明荘にいる、やまならし氏から時々 季節の便りが届く。
若い頃、登山をした人には、山小屋の仕事を一度してみたかった、という人も、少なからずいるようだ。

その夢をそのままと実現した人はほんの少数だろうが、身の回りには、ペンションとか似たような接客業に
ついた人が何人もいる。サポートにまわった人もオーナーになった人もいる。脱サラして、山小屋暮らしを経験
して、また麓におりて、新しい人生に踏み出した人、これが殆どだろう。

そういう話しをしたりしていると今の自分にも山との関わり、というより山小屋体験からの流れてきて
いるものが多い、多いどころか、今の暮らしも限りなく相似形と気づかされる。

私がはじめて山小屋体験をしたのは、高校時代、山岳部が作って学校の施設として管理されていた
奥秩父の山小屋にクラスメートらと行ったのが最初だった。初体験としての印象はないが、何度かの
宿泊の記憶がいりまじって思い出される。


コメント(0) 
共通テーマ:旅行
山小屋の青春 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。