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追想…『手袋』 [yamanarashi]

放課後の少年を乗せたバスは、路面電車の走る大通りから岐れ郊外を抜けて、その町を流れる川の源流に向かって走っていた。道路はやがて舗装がなくなり、谷あいの集落で何人かの客を降ろすと、山の中腹にある小さな寺院の山門を目指して掛け上がって行った。
折り返しまでの少しの時間に運転手と若い男車掌が、魔法瓶に入ったコーヒーを飲まないかと勧めてくれた。だが他人から物を貰うことに慣れていない少年は、せっかくの親切を無にしてしまった。
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こうして山並みや集落の風景を眺めながらバスを運転していると、そんなことがあった少年時代のことや、十代の頃にこの付近の山々を歩く中で出会った先輩や後輩が、自分が彼らにきちんと向き合って接しないままに山から還らなかったり、或いは難病によって逝ってしまったことなどが、ふと頭の中をよぎることもあったが、乗客のお年寄り達が「なあ兄さん…」と話しかけてくれることで、つまらない感傷がどこかへ飛んでいくのは有り難かった。
田植えのあとにいい雨だとか、歌いながら山椒の実を摘むと木が枯れる、と言った農山村らしい会話を交わすのだか、こういう関わりというのは、いつから顔馴染みになったのかはっきり思い出せないものである。
そんなお年寄り達の中に、小柄で物静かで、そしてどことなく都会的雰囲気を持った「おばあさん」がいた。その姿には初孫として自分を可愛がってくれた祖母の面影があった。
おばあさんと話すようになった最初のきっかけは、何故自分が株主優待証を持っているのか、という話からだったかもしれない。
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歴史あるその町は背景に山を抱えていた。山里が炭焼で栄えていた頃、自動車交通が登場し道路も徐々に整備された。村のリーダー格であった一人の篤志家は、私費をつぎ込んで町と村を結ぶバスを開通させた。おばあさんは、その彼のところへ後妻としてやって来た。前妻の子らも自分の子と思って育てた。
バスは周辺の他社に合併されながら、やがて私鉄の傘下に入り、経営は次第に彼の手を離れていった。そして林業の衰退や自家用車の普及によりバスの利用者が少なくなり便数が減っていっても、おばあさんにとって、バスは亡き夫が築いた誇りであり、彼そのものであるかのような存在だった。小さな手提げ鞄の中にはに彼の写真と開業間もない頃のバスの写真が大切に収められていた。
そんな写真を見せながら、おばあさんはいろいろなこと私に語ってくれた。バスを開通させた頃の収支計画のこと、町の周辺部にあった車庫の二階の事務所でよく彼が仕事をしていたこと、彼はバスだけではなく燃料関係の事業も行う懐の広い人で、例えば役所で要職に就きながら何かの不運で左遷されたある人を招き入れたことあった。その人らとともにトラックの荷台に乗って更に奥地の炭山を視察に行く話は実に牧歌的である。
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いろんな話を聞かして貰い、またいくつかの資料も見せていただいたのだが、ここに綴るのはこれくらいにしたい。
というのも、以前私はそのことを記録として、若い頃に足を突っ込んで今だに抜けられなくなっている自然保護団体の冊子に書かせて貰ったからだ。この会の編集者は行動は果敢だが寛容な人だから、自然とは直接関係の薄い私のつたない文章を快く載せてくれたのだ。
今になって思うことだが、当時私の関心はバスや村の歴史に関することが中心だったが、出来ればもっとおばあさん自身の気持ち心情といったものを聞けたらよかったのにと後悔する。将来は老人ホームを作って、みんなが楽しく暮らせる村にしたい、という夫の思いが、たぶんおばあさんの願いでもあったに違いない。
村の「今」についても何か語ってほしい気はしたのだが、「みなさんがいい方向へ持って行かれるでしょう」というどこか卓越したスタンスは、せっかちな私に何かを教えてくれたのかもしれない。
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しばらく出会わなかったおばあさんと久しぶりに乗り合わせた。この日は終点の私鉄駅までだったので、私もゆっくり話すことが出来た。もっとも私が何を話したのかは、元気そうで良かったなどと言った事くらいしかろくに覚えていない。だがおばあさんは「今の自分の楽しみはあなたに会って話すこと」そう言いながら、握手しようと両手で私の手を取った。その気持ちに応え「また話しましょう、気をつけて」と電車に乗り換えて行く彼女を見送った。
それからしばらくして私はバスの仕事を辞める事になり、結果的に意思疎通が出来る形でおばあさんに会えたのは、この時が最後になってしまった。
あの時、しっかりと握り締めた手から、おばあさんに気持ちは伝わったとは思うものの、時間のゆとりがなかったとはいえ、せめて白い手袋を外して、おばあさんの小さな手をしっかり包んであげられたらよかったのに。今も後悔している。
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バスを辞めてからは沿線を訪れる事もあまりなく、おばあさんに会うこともなかった。家も電話もわかっているのだから訪ねていけない事はなかったのだが、それはなんだか大袈裟な感じだし、バスという媒体を介してでなければ相応しくない気もした。
だが数年経って、私は人が老いていき時間は無限ではないという当たり前のことに気づいて、思い立って山あいのおばあさんの家を訪ねた。残念ながらおばあさんからの応答はなかったが、多少の交流のあった親戚の家で、おばあさんがある老人施設に入所していてだいぶ弱っていることを知らされた。
もはや会う機会も逸してしまったかと思っていたから、感動がたかまり、その足で市内の花屋へ寄り、卓上に置けるような花束を作って貰って施設へ向かった。
結構広く窓も明るい個室におばあさんは横になっていた。顔も痩せ、私が何度か呼びかけても判別出来ているのかどうかわからず、時々視線を向けてくれるものの言葉のやりとりは無理であった。だが花束を差し出すと手を伸ばしてきてくれた。花の好きなおばあさんの事を改めて思った。押し花や写真をいくつかくれたにもかかわらず、散逸させてしまった不孝者の私である。
帰り間際にもう一度呼びかけた。立ち去ろうとした時に微かに聞こえた気がした「遠いところを…」という声が空耳だったのかどうか、今もわからないでいる。
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初夏におばあさんを見舞ってからのち、私は仕事の関係で他府県に滞在したり、私事にかまけたりしていた。半年がたった頃、親戚筋の人から電話があった。
おばあさんが亡くなったという知らせだった。昼食の時は元気だったが夜になって急変して逝ってしまったとのことだった。納骨は市内の大きな寺院と生まれ故郷の山陰のお寺にだけ行い、長年住み慣れた地元の村の墓には納められないことも併せて知らされた。いわば何の義理もない私に連絡してくれた、この親戚の方に感謝するとともに、おばあさんが生きて来た年月の中での複雑な状況を思った。
あれから一年以上経つがまだ市内の寺院に墓参りには行っていない。それよりも、もし時間が出来たら、おばあさんが少女時代を過ごした山陰の海辺の町を訪れてみたい。なるべくなら丹波を抜けて城崎から海沿いの経路による昔ながらの山陰本線をたどりながら。たぶんおばあさんもそうしてやって来たのだろうから。
ギラギラする太平洋よりも日本海の淡い色合いの海を眺めたいと思うようになったのは、自分も歳をとったせいなのだろうか。
(完)yamanarashi.
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